歯吹地蔵尊
ヒノキ材・寄木造・玉眼嵌入・布貼錆漆塗漆箔仕上
像高:五〇・八センチ
南北朝時代中期・一四世紀前半
円頂で、額に髪際線を表し、白毫相(いま欠矢)を着け、耳朶は環状とします。胸から腹部にかけて大きく開き、腹部に 裙の結び目をのぞかせています。右肩に偏 衫を着け、左肩をおおい右肩に少しかかる衣を着けます。両脚部から前に衣を垂下させる、いわゆる裳懸坐形式の像容をとります。内刳 りを丁寧に施し、全体に薄い木地となって軽量化が図られ 脆弱な感がありますが、像表面及び像庭にも布貼黒漆が施され、強化が行われています。三道下で割首としていますが、三曲に割れ目を入れており、当該形式の類型の範にならった鎌倉の仏所の作品であることがわかります。南北朝時代中期の造像と推定されます。
修復後の歯吹き地蔵菩薩
薬師如来坐像
薬師如来は寛文9年の作。
勝浦市大森にあった旧東光寺から厨子と薬師さんを迎えし、薬師堂を建立しました。
当時作られた薬師堂は旧東光寺の二九世慧恩首座が延享三年九月の作と記録にあり、堂はすでにない。
他にも、木造僧形座像(県指定)、木造地蔵菩薩立像(県指定)、木造地蔵菩薩半跏像(勝浦市指定)の仏像彫刻がある。
東光寺は大覚禅師(蘭渓道隆)、第三世の法孫・實翁和尚の創建であり由緒寺院であった。
幻の地蔵さん
幕末のころ、真先地蔵堂が暴風のため大破した。その時信者の寄付によって造立したことが記されている。明治、大正生まれの人は村の中央十字路にお地蔵さんの堂があって、厄除けの仏として一般の信仰を集めていた。いつのころか、地蔵さんの行方がわからなくなり、当時わずかな敷地に一部が残っているだけで、心ある人々から惜しまれていた。しかし
今は、応徳寺の地蔵堂にあり、等身大(高さ150センチ、重さ200キロ位)の地蔵さんが二基安置されています。一体は寛文八年申三月吉日奉造立地蔵菩薩当泰雲とあり。他の一体は爲法界無縁施主三拾人(これは真先の戸数)とあり、真先の十字路のお堂に安置された村人から長く、厚く信仰された幻の地蔵様と伝えられている。
〇鰐口は寛文年間の作である。
筆弟中
茂原市早野 、応徳寺境内
峨浄禅師を讃えた碑
江戸時代から明治の初めごろまでは、寺子屋の門弟が師への感謝と頌徳を込めて建てられた。
禅師は1831年、応徳寺へ入山し寺子屋を開き
学校教育をされた。文久3年66歳で没し,
翌年門弟等は禅師の徳を慕い 碑を建立した。(文久4年(1864)禅師が没したのち、寺子たちは八幡原内山塾へと移る。五郷教育の源流がうかがえる。
右側の碑は、1923年(大正12年)の関東大震災でお寺が倒壊し、その後、檀徒・有志から寄付をいただき再建され今の本堂に至れり。
達磨大師
寛延二年(1749)作
令和4年秋は、浅草にある宮本卯之助商店さんで、太鼓両面の張り替えと一本足を新調しました。
応徳寺
御朱印でお参りの方がこのごろ多くなっています。お参りご苦労様です。折角お越しいただきましても、タイミングで留守します。悪しからず。
本堂
天井に描かれた天女
天上界の女性。吉祥天女・弁財天女など。本堂へ入ると 天女が迎い入れてくれます。
七仏通戒偈
諸の悪を作すこと莫れ、衆の善を行い奉れ
自ら其の心を浄うせよ、是れ諸仏の教えなり。
参詣者をお迎えする地蔵さん
臨済宗妙心寺派